くらやみ10

波打ち際に靴を忘れて,それすら気づかず、走る。太宰の沈んだ海を捨てて,ひたすらに走る。猫のいない路地裏。通り過ぎるバス。消えていく夕暮れ。何が自分を突き動かすのか,葉子にもわからない。足の裏が痛む。それすら,気づかずに,走っていた。帰り道の学生が,靴のない葉子を見て,怪訝な顔をする。それでも、構わず,走る。それしか,できない。ひどく切実に、そう思う。

もつれた足で,葉子は震える手で何度も何度もしくじりながら,ようやく自宅の鍵を開ける。倒れこむように中に入り,這いつくばって一直線に寝室に向かう。汚れや傷もそのままに,本棚に手を伸ばす。そこに並ぶ,太宰の本。手当たり次第に掴んでは,大事にしていた本を,ためらいなく破っていく。部屋中に紙の死骸を撒き散らす。太宰は,死んだ。葉子の中の太宰は,死んだ。殺した。葉子が,殺した。今まで見てきた世界は,何だったのだろう。重石が取れたように,葉子は本を破り続ける。真っ暗な部屋の中,紙の死骸の中,葉子は生まれた。最後の一枚を破ったところで力尽きて,紙屑だらけの床に倒れこむ。