くらやみ9

この世界は,こんな色をしていたのだろうか。茜色の空が,網膜に焼付く。もうすぐ夜がやって来る。神妙な面持ちで,葉子は足を引き上げる。最後の波が,誘うように葉子の足に絡みつく。それが,葉子には,亡霊のように見える。葉子はそれを怖いと思う。馴染んだ温度に,はじめてそう思う。肌が粟立つ。離れなくては。ここから,すぐに。そうでなければ,きっと飲み込まれてしまうから。

(わたしは,今まで何を見ていたのだろう)

太宰の本に出会った日から,葉子のすべては太宰とともに在った。太宰の描く世界が,葉子のすべてだった。現実以上に,大きな存在として,葉子の中に在った。だけど,それは多分,そう思いたかっただけなのかもしれない。葉子は,気づく。わたしじゃない。わたしは、もうそこにはいない。目に見える世界が,急速に輝きを失っていく。何もかも,他人のような顔をしている。拒絶されたように,胸が痛む。ここにいたい。それでも,もう戻れない。手に持った本が落ちた。音がした。それを聞いた。拾わなければと思う。それでも,葉子は,動けなかった。砂が,波が,本をもてあそぶ。それをただ,呆然と眺めている。

(そうだ,太宰は)