くらやみ8

(だけど、本当に?)

太宰の本に出会った日から,葉子のすべては太宰とともに在った。太宰のように,生きたかった。太宰のように,死にたかった。そう思っていた。

(本当に?)

波に足を浸す。太宰のように。小さく発声する。そこには、拭いがたい違和感があった。

(…わたしは、わたし)

波が,葉子の足を濡らす。気づけば,夕陽が射し始めている。その赤に,波が染まっていく。葉子が染まる。世界が染まる。葉子には,それが血の海に見える。生きるために,何百何千の人々が流した血。ここに来るまで,葉子は,それはただ太宰のためにあるのだと思っていた。葉子の中で,世界は太宰のために在った。お門違いだとわかっていたけれど,半ば本気でそう思っていた。葉子にとって,太宰は世界のすべてに思えた。まるで,太宰の作った世界で,右往左往しているだけに思えた。はりぼての世界。水に浸したら,破れてしまうような,そんな世界で息をしていた。破れた隙間から,新しい空気が葉子の肺を充たす。それまでの濃密なまでの息苦しさに,やっと気づく。捕らわれていた。心も,頭も,葉子のすべてが。