くらやみ3

一番覚えているのは、何とも不穏な海の描写だ。平たく言えば、主人公が心中する。そんな話だ。さすがに今すぐ死にたいというわけでもないが、本を通して見た海が心の底に残っていた。心がざわめいた刹那、不意に、窓の外で強く風が吹く。それを、鳴り止まない潮騒のようだと思う。

(そうだ,海。海が見たい)

その刹那,あんなにもうるさかった蝉時雨が遠ざかる。息苦しい水面から、顔を出した時のように、それは唐突に起きた。鉛のように重かった体が,急に軽くなっていく。動ける。今しかない。そう、確信する。葉子は、その勢いのまま、落とした本を拾うために,がたんと音を立てて,起き上がった。

「良かった,どこも折れてない」

拾い上げた本を大事に鞄に入れる。何も怖くないような、そんな気持ちになる。実際は、何も変わらないのに。何でも良いからとベッドの上に適当に散らばっていた服に着替えて,急いで靴を履く。ドアを開ければ,蝉時雨が戻ってくる。いつもはこれに無力感を覚えたけれど、今はなぜだか体が軽い。潮騒のような、葉擦れ。一歩一歩踏みしめながら歩くけれど、同時に気持ちがどんどん急いてくる。今しかない。歩け歩けと念じながら、だけど、これ以上は速度が上がらなくて、もどかしい思いをする。走るほどの体力はない。何だか今まで何もしなかった自分が馬鹿馬鹿しくて、清々した気持ちになる。ほら,どこにも行けないわけじゃない。