名前のない空2

気づけば、深く眠っていて、起き抜けの瞼に容赦なく光が射す。朝だ。朝が来た。絶望的なまでに清々しく、圧倒的な正しさを以って。相変わらず、微塵も容赦がない。生きろとも、死ねとも言われているような、訳の分からない何かがある。

 

朝の光を、なす術もなく、ぼんやり眺めている。世界は圧倒的な希望に満ち溢れていて、圧殺されそうになるのを必死に堪えている。朝は嫌い。昼も嫌い。夜も嫌い。何もかも嫌になるから、そろそろ全部終わらせてくれないかなと思う。そこまで考えて、生きてればいいことあるよ、みんな苦しいんだよといつか言われた言葉が絶え間なく頭をめぐる。そんなの欺瞞じゃないかといつも思う。慰めてるつもりだろうけれど、馬鹿にするのも大概にしろよとますます心が荒んでいく。大体、みんなって何だ。正直意味が分からない。同時に、善意を善意として受け取れない、そんな自分にも嫌気が差す。

 

何もかも置き去りにして、世界は穏やかに朝を迎え、皆平等に一秒ずつ年老いていく。死に向かって歩く。その繰り返し。そんな、この世界の仕組みも大概どうかしている。希望も何もない。本当は、ただ精一杯生きていきたいのに、どこで間違えたんだろう。首を傾げても、何も変わらないし、わからない。わかっているけど、斜め45度から見る太陽は、どれだけ手を伸ばしても届かない、遠い遠い距離感で、いつだって輝いている。

名前のない空1

なんで生きていかないといけないんだろう。ぐちゃぐちゃになった気持ちを抱えて、毎日呻いてる。助けなんか、ない。誰のどんな言葉も、慰めにならない。そんな自分に嫌気が差す。それでも、多分生きていくしかなくて、その事実を痛感するたびに、声を上げて泣きたくなる。

地図のない森の中で、彷徨っているような。今、わたしはどこにいるんだろう。進んでいるのか、戻っているのか、全くわからない。ただ、容赦なく日は暮れて、世界は幾ばくかの静寂に包まれる。朝を待つだけ。それしかできない。夜が明ければ、また迷路の繰り返し。どちらがましなのか、もうすこしもわからない。

苦しい。ただ、ひたすらに苦しい。誰もいない森で、意味もなくもがいている。こうやって、人は死んでいくんだろう。そうした予感だけが残る。

空から零れ落ちる星屑。拾う前に消える。童話を信じるとすれば、ほんとうはそれは誰かの命だったのかも知れなくて、掬おうとする手が震えてしまう。何もできない。それだけは、痛切に理解している。

くらやみ12

「わたしは、」

目を閉じて、浅い息を吸う。

「…わたしは」

ふと言葉が口をつく。

「わたしは、なれない」

頭の中で、言葉が生まれては、暴れだす。

ずっと蓋をしてきた言葉。

止まらない。

「わたしは,太宰のようには、なれない」

ふと目を開けると,太宰はすべて紙屑になっていた。あんなにも大事に思っていた太宰の本は,今はもう何の意味もなさない。そんな状態になっていた。葉子が,そうした。何の強制も受けず,葉子自身の意思で。後悔よりも,痛快だと感じた。

(わたしは,自由だ)

ふと気づけば,部屋の外から,音が聞こえる。蝉時雨。やかましいクラクション。誰かの話し声。いつも通りの,生活音。さっきまで全く感じなかった眠気が、葉子を襲う。それを聞きながら,葉子は葉子になろうと思った。どうすればいいか、何をすればいいかも、さっぱりわからない。太宰という支えを自らなくした今、本当に立っていられるのかも、怪しいと思う。本当にわからない。それでも、直感的に正しいと思った。なれるものなら、なりたい。太宰でも,他の誰でもない,葉子自身に。

くらやみ11

目を閉じれば,思い出す。葉子は,ずっと自分を許せなかった。自分のことが,大嫌いだった。醜悪で,馬鹿で,何にもなれない,誰からも疎まれて,誰の役にも立たない,存在することを望まれていない人間だと思って生きてきた。いつも,生きているのが,無性に恥ずかしかった。申し訳なかった。どこにも居場所がないと思っていた。誰かといても,ずっと独りだと感じていた。そんな孤独の中,太宰の本に出会った。太宰の言葉は,葉子の中に何の抵抗もなく入ってきた。そんなことは,はじめてだった。夢中になって,何度も何度も読み返した。葉子は,はじめて居場所を見つけたような気持ちになった。

太宰の本は,確かに葉子を支えてくれた。消えたいと心の底から思う気持ちも,誰と関わっても味わう疎外感も,どこかに吐き出すことが出来ずに,いつも決まって,ただ太宰の本を開いた。いつだって,太宰の本の中に,葉子は,自分自身を見つけられた気がした。大半の文章を暗記してもなお,飽きもせず,本を開いた。太宰は,なぜこんなにも自分のことがわかるのだろうと,いつも葉子は思った。やがて,太宰の本が,その文章の一つ一つが,太宰が生きていたという事実そのものが,葉子の折れそうな背骨を支えていた。

くらやみ10

波打ち際に靴を忘れて,それすら気づかず、走る。太宰の沈んだ海を捨てて,ひたすらに走る。猫のいない路地裏。通り過ぎるバス。消えていく夕暮れ。何が自分を突き動かすのか,葉子にもわからない。足の裏が痛む。それすら,気づかずに,走っていた。帰り道の学生が,靴のない葉子を見て,怪訝な顔をする。それでも、構わず,走る。それしか,できない。ひどく切実に、そう思う。

もつれた足で,葉子は震える手で何度も何度もしくじりながら,ようやく自宅の鍵を開ける。倒れこむように中に入り,這いつくばって一直線に寝室に向かう。汚れや傷もそのままに,本棚に手を伸ばす。そこに並ぶ,太宰の本。手当たり次第に掴んでは,大事にしていた本を,ためらいなく破っていく。部屋中に紙の死骸を撒き散らす。太宰は,死んだ。葉子の中の太宰は,死んだ。殺した。葉子が,殺した。今まで見てきた世界は,何だったのだろう。重石が取れたように,葉子は本を破り続ける。真っ暗な部屋の中,紙の死骸の中,葉子は生まれた。最後の一枚を破ったところで力尽きて,紙屑だらけの床に倒れこむ。

くらやみ9

この世界は,こんな色をしていたのだろうか。茜色の空が,網膜に焼付く。もうすぐ夜がやって来る。神妙な面持ちで,葉子は足を引き上げる。最後の波が,誘うように葉子の足に絡みつく。それが,葉子には,亡霊のように見える。葉子はそれを怖いと思う。馴染んだ温度に,はじめてそう思う。肌が粟立つ。離れなくては。ここから,すぐに。そうでなければ,きっと飲み込まれてしまうから。

(わたしは,今まで何を見ていたのだろう)

太宰の本に出会った日から,葉子のすべては太宰とともに在った。太宰の描く世界が,葉子のすべてだった。現実以上に,大きな存在として,葉子の中に在った。だけど,それは多分,そう思いたかっただけなのかもしれない。葉子は,気づく。わたしじゃない。わたしは、もうそこにはいない。目に見える世界が,急速に輝きを失っていく。何もかも,他人のような顔をしている。拒絶されたように,胸が痛む。ここにいたい。それでも,もう戻れない。手に持った本が落ちた。音がした。それを聞いた。拾わなければと思う。それでも,葉子は,動けなかった。砂が,波が,本をもてあそぶ。それをただ,呆然と眺めている。

(そうだ,太宰は)

くらやみ8

(だけど、本当に?)

太宰の本に出会った日から,葉子のすべては太宰とともに在った。太宰のように,生きたかった。太宰のように,死にたかった。そう思っていた。

(本当に?)

波に足を浸す。太宰のように。小さく発声する。そこには、拭いがたい違和感があった。

(…わたしは、わたし)

波が,葉子の足を濡らす。気づけば,夕陽が射し始めている。その赤に,波が染まっていく。葉子が染まる。世界が染まる。葉子には,それが血の海に見える。生きるために,何百何千の人々が流した血。ここに来るまで,葉子は,それはただ太宰のためにあるのだと思っていた。葉子の中で,世界は太宰のために在った。お門違いだとわかっていたけれど,半ば本気でそう思っていた。葉子にとって,太宰は世界のすべてに思えた。まるで,太宰の作った世界で,右往左往しているだけに思えた。はりぼての世界。水に浸したら,破れてしまうような,そんな世界で息をしていた。破れた隙間から,新しい空気が葉子の肺を充たす。それまでの濃密なまでの息苦しさに,やっと気づく。捕らわれていた。心も,頭も,葉子のすべてが。